昭和40年01月08日 朝の御理解


 例えば、荷車を引かせて頂く。荷物が後ろにかかり過ぎたら、押さえるのに、骨が折れる。ね。いわゆる、あの、引手と申しますか、引手を押さえるだけでも、力がいる。<自分の、を>少し重いものでもあったら、自分の体が上にこう、宙に浮く様になってくる。と言うて、今度は手前にかかり過ぎますと、これをかかえるだけでも、引手をかかえるだけでも、骨が折れる。
 それに引くという力が、必要だけれども、その、引く力がげる。押さえる力、かかえる力、それがどうでしょう。丁度、それが中心に荷物が在ります時にです、もちろん引く力は必要ですけれども、楽に、引いていけれる。私、そんなものだと、私どもの心もそうだと思う。問題は、中心になからなければならないという事。自分達の心と言うものは、いつも、平生でなからなければならないという事。中心を欠いではならないという事。にもかかわらず、平常でないという時にはです。
 やはり自分の信心が、中心を欠いでおるという事。本当のことを欠いでおるという事。そこを私は一つ、分からせてもらわにゃいけん。苦労無しに、事が成就したり、おかげを頂けるとは思われない。やっぱり修行が必要である。苦労が必要である。だからそれを、他に求めて修行するといった様なことではなくてです、自分の心の上に求めて行くという修行。または、自然に起きてくる苦労と言うものをです、それを苦労とせずに、それを修行としていくという事。
 特別の私は、その、苦労をしなければという事でなくてから、私は、その、信心の苦労と言うのは、そんなもんだと思う。ね、そこを、教祖の神様は、「表行よりも心行をせよ」と、こう仰っておる。自分の心が中心をそれておる。中心でない、ために、平生を欠いでおる。それは荷車の荷物が後ろにかかり過ぎたり、前にかかり過ぎたりして、押さえるだけでも骨が折れる、かかえるだけでも骨が折れる、という、それと同じ事ではなかろうか。自分の心が、自分の心が中心をそれておる。
 それでは、私は本当の修行にはならない。ね。中心をそれたことでは出けん。中心をそれないから、信心がだんだん、神様の認められる所ともなり、神様のご信用も頂き、いわゆるご神徳を頂いて、おかげを頂けれる。ですから、そうした一つのまあ、ご神徳の、なら、車なら車でもです、ね、ハンドル一丁持っとれば自由に運行が出来るような、なら、自動車なら自動車の様な徳を受ければ楽でしょうが。ね。ですから、始めから自動車の徳を受けようと言うて、受けられるものでは無いという事。
 いわば、人力の限り、人間の力の限りをです、ね、どこへ置いて、焦点を置いて信心をするかと。ね。人間の力の限りを、自分の心の中心に持って来るところの修行。ね。そこん所の修行を私、さして頂かなければいけない。ね。平生を欠いでおる。押さえるだけでも骨が折れる。かかえるだけでも骨が折れると。と言うならば、丁度、今こそ人力の限りを尽くさなければならない時に、そういう無駄な事に人力の限りを尽くしては相済まん。ね。中心に持って来にゃいけん。
 その中心に持って来る時にです、私は、いわば押さえんでも済む、かかえんでも済む、ただ引くだけで良い、という事になってくる。そこの所の人力の限りがです、人間の、いわば働きの限りを、そこへ焦点において持ってくる時です、必ず神様のご信用が頂ける。ご神徳というのは、徳の車と。スイッチ一つで、又は、そのハンドル一つを持てばです、自由に、この世が渡れる様なおかげを頂くために、先ず一つここん所の、を、大事にして行かなければいけぬ。
 自分を中心にする。自分の心の中を中心にする。自己中心、そういう意味じゃないけれどね。。自分の心の中を中心にする。そして自分が平生であるならばです、例えば、難儀が難儀と感じる事であっても、問題は、平生でなからなければならないという事。ね、はがゆい事や、腹の立つような事があるならばです、それは平生を欠いでおるのであるから、中心が間違っておるという事。ね。 
 信心とは、私はいつも、いわば、毒薬を変じて、薬にしていく所のおかげを頂かなければならない。それはみすみす毒ではあるけれどもです、自分の心が平生であり、中心であれば、変じて、それを薬にすることが出来るという事。ね、そして人間の限りの力を持って、なら、車を引く様なものであるという事。そこに、もちろん力を頂くという事も、事実、問題ですけれどもです、ね。
 お徳を頂く、神様のご信用を頂くということになるのです、ね。私はどうでも、その一つ一つがです、無駄な事はないのですから、その一つ一つが、たとえそれが、困った事であっても、みすみす毒の事であっても、それを薬にしていけれるだけのおかげを頂くために、私共は、いつも思いを中心に置かなければならないと。自分の心に置かなければならない。形に置いてはならない。相手に置いてはならない。自分の心に置かなければならない。心を中心にしなければならない。中心に荷物を置かなければならない。
 後ろにかかり過ぎても、押さえるのにおおごと。前にかかり過ぎても、かかえるだけでも大変な、荷車の道理と同じこと。ね、ここん所を一つおかげを頂いて行かなければならん。苦労ということ。難儀、修行とこう言うけれども。ね。そこん所を修行とさせて頂くならです、なるほど、本当に一生が修行という、尊い修行に進んで行く事が出来るという事を、私は感ずる。ね。一つの困った問題をです、難儀な問題をです、お取次を頂きながら、おかげをこうむって行くと。不思議にお取次を頂く所に、平生心が生まれてくると。相済まんと、有り難いという心が生まれてくると。
 昨日、一昨日(おととい)でしたか、秋山さんが、もうこれは、親戚の叔父さんから、まあ使っとけという意味でその融資をして貰っておった。ですから、まあ言うなら、そのいつでも良いという金である。ところがその、おじいさんが、叔父さんという方が、大変、その危篤状態という訳では無いけれども、大変難しい、今の医者では分からないような病気かかられた。そして、その寝ながら言われる事がです。
 「秋山に言うて来てくれ」て。「借金ば早う払うて呉れねば、死んだっちゃ行く所に行ききらん」て、その、言づけがあった、て言いよったね。それこそ今年払わんならんとか、今払わんならんとか、思いもかけない所に、そういう様な言うなら、難問題であるということ。そこの事をお取次願われたんですね。ね、そして、本当にそこに相済まぬ事であったとか、本当にお礼申し上げるべき事であったとか、という事が分かって、心の中が平生になった。これがお取次を頂かなかったらどうでしようね。
 後ろにかかり過ぎた荷物の荷車のように、または、前にかかり過ぎた荷物のように。そのことが私は、苦になり荷になると思うのですね。引いて行くというだけでも、大変なのに。心が平生な、有り難い。本当に済まぬことじゃったと。叔父にそういう思いをさせたという事が、相済まぬことじゃった、というような気持ちで、あちらに行かれたと。「本当に叔父さん、どうも済みません。ながながと」ち言うてから、まあ全部じゃないけれども、一部の金を持って行かれたところがですね。
 もう涙を流して喜ばれたち。「ほぉう、かっとってから、まるきり、こりゃもうただで貰うたことのごたる」ち言うて、喜びなさったそうです。ね。そしてから最後に言われた。「カズエさん、もうこれは、お前持って帰ってくれ」て。ね。問題はこちらが中心である、中心に、その問題を持って来たからなのですよ。そこにお取次を頂いて、自分の心がいつも平生心である。しかもそれがどの様な場合に臨んでもですよ。ね。そういうような、「今更そんなことを言うてから」とか、「言うことも、言うちから。
 お前払らわんなら俺も行く所へ行ききらんけんなんて言うちから」という様な事なんですけれどもです、言われてみると、借りておるのは事実なのだから。お取次を頂いたら、心が、いわゆる中心にその荷物が丁度中心に来た様なもの。まあだその自動車の徳というところにまで、行っとらんに致しましても人間心の、人間の力の限りを今は尽くして修行しておられる時ですけれでもです、それが引いて行くということが楽になった。行くという事が本当に有り難いとか、相済まぬでむこうへ行くことが出来た。
 そして叔父さん「済みません」と言うことになり、叔父さんは「ただで貰うたごとある」と言うて喜ばれる。そして最後にはです。「これは、もう頂いたも同然、お前方もおおごとじゃろうけん、持って帰れ」ち言いなさったち。「いいえ、それでもこれは折角用意して来たから」と言うて、置いて来たけれども、「もうそういう広大なおかげ頂きました」と言うて、昨日の朝お届けがあったんです。ね。
 もう言うならば、毒薬変じて薬にした様なもの。そういう生き方があるのです。もうおかげ頂いとる。平生心のおかげ頂いておる。何でも無いときに、平生心のごとあるけれども、こと何かになってみると、心が乱れる。そして、荷物が、後ろにかかり過ぎておる、手前の方にかかり過ぎておる、ということに気付かんでおるのですねどうぞ、私は中心に持ってこんにゃいけんと思う。ね。自分の心の中に持って、こにゃいかんと思う。信心は何というてもです、お道の信心は、ご結界が中心なんです。
 本当に赤裸々なお取次を頂かせてもろうて、そして、そこから、平生心を、中心を頂いて、ね。お繰り合わせ頂いて行かなければいけません。昨日一昨日でしたか、熊本の山田さんが、正月から二度目のお参りを、自転車でされました。そして、ここでご祈念をしておられたら、丁度、久富先生がご結界奉仕しておられました。只今ご心眼に『ゆでだこ』を、蛸を頂いた。しかも、ゆでだこなんですね。それから、そのことを、久富先生がお取次をなさった。そしたら久富先生のご心眼に、この、いわゆる『生きた蛸。何かにバァーと、こう吸いついておる蛸』を頂かれた。
 しかも、その、吸いついとる勢いでです、みるみる変色して、確かに、あの、こう紫色に変わっていくですね、あれは。こう吸い付きますと。『みるみる紫色に変色していく蛸』を頂かれた。それで山田さんに、お取次された。「山田さんあなた方が、こうして椛目、椛目と言うて、通うてみえるということは、何とは無しに椛目に、言うなら魅せられておられるのだと。だから一週間に一遍」二遍ですたいね。今度の場合は。「の、例えば、しかも熊本から十何時間かかって、自転車で参ってみえるという事。
 よっぽど何か難儀な問題のお取次を願われる訳でも、何でもないのですものね。只、椛目の信心に触れたい。そこに魅せられて、熊本へんぎからでも、参ってみえるという事」それは、蛸のお知らせは、いわゆる魅せられる、という意味に頂くのですね。「ところがです山田さん、ね。これは、私は、も少しあなたの心の中に、生きたものがなからなきゃいけないという事。そして変色なさらなければいけないという事。ね。
 でなかったら、本当のおかげにゃならんという事。その辺に信心の焦点を置かれたらどうでしょうか」て言うて、お取次させて頂きました。と言って、その帰られた後に、私、そんな事を、久富先生に聞かせて貰うた。ね。皆さんの場合でもです。こうして朝晩しげしげと、お参りしておるから、いかにも生きた椛目に魅せられて、て言うかね。椛目でなきゃならんと思うて、参ってきよんなさるようであっても、それが『ゆでだこ』であったら、さほどの値打ちはないという事。ね。
 生きとるならば、変色、生きたものが吸い付くならです、変色するということ。紫色に。いうなら安心の色に、変色していかなきゃいけないという事。変色していないとするならです、今日私が申します、いわゆる中心を欠いでおるんだという事。ね。形だけ、私とこの流儀だけを体得しただけではいけん。その内容を、精神を、私は体得しなければいけないと思うんですね。おかげを頂きますように。